当時いろいろと悩んでいた私のテーマは、「怒り」でした。
腹が立つことが度々あったので、その感情をうまく散らして何とか心穏やかに過ごせないものかと模索していたのです。
写経とヨガの会に参加した時、「怒り」について住職に尋ねてみました。
「どうしようもない怒りに支配されてしまう時、どうしたらいいですか?」
住職は微笑み、
「怒りとは違った感情に変えて出せるといいですね。同じエネルギーでも、どう出すか、何を出すのかによって全然変わりますから」
うーん、だからそれが出来ないから写経とかしに来てるんだよーんw
とは言えないのでもう少しディスカッションをさせていただき、「そもそも怒りとは生まれつき搭載された感情なのに、どうして無くそうと努力しなくてはならないのか」などなど食い下がったのですが、やはりそこは仏門。仏への道。達観しましょう。こころおだやかに。
納得できる答えには出会えず、私の心はますます苦しくなっていくのでした。
ある晩、夢に弁天様が現れました。
私は溜まりに溜まった怒りエネルギーが決壊し、弁天様を全力で殴りまくったのです。
もう、完全にろくでなしブルース。
完全に北斗の拳。
全身全霊でくり出すパンチ。
弁天様の顔もボディも全力で殴りつけました。
しかし、手応えがないのです。まるで水を殴っているかのような感触で、弁天様は薄く目を開いているお顔のまま、少しも表情は変わりません。
そしてひとこと、
「怒りは怒りのまま、出しなさい」
目が覚めた時、手に残る罪悪感と水の感触に戸惑いつつも、ちょっと世界が明るく見えて、前向きな気持ちになっていました。
そこにある感情はそのまま出せばいいよって、ただ誰かにそう言ってもらいたかったんだと気づきました。
それが正しいとか間違ってるとか、とりあえずは、関係なく。
自分で自分に「いいよ」と言えれば、それで解決だったのです。
弁天様をぶん殴るという暴挙について解き明かしてくれる人に出会うのは、もう少し先のこと。
言葉の意味と、私と弁天様をつなぐ共通点、本当の姿。
見えない世界はやはりあるのかもしれません。
この愚かなる罰当たりな行動を以て教えてくださった弁天様の深い御心に感謝しながら。