直感を鋭くするにはどうすればいいのか、について書いたこちらに補足です。
そもそも日本人はみんな超感覚を持っていたはずなのに、なぜ現代人はその感覚が失われているのか。
いくつかの要因があるはずですが、一番はやはり「太陽太陰暦」から「グレゴリオ暦」に変わったことだと思います。
太陽太陰暦、つまり「旧暦」は月と連動していて新月が「一日」満月が「十五日」と決まっていたので、人は月を見て日付を知ることができました。
月のリズムと海や体が連動していることもわかっていたので、昔の人々は月や太陽を見て「今何をするべきか」を理解していたのです。
↑今日の月はあと二日で満月だから、旧暦で今日は十三日だとわかります。
でも、暦が変わったから超感覚を失ったわけではなく、旧暦でのイベントを日付だけそのまま新暦に当てはめたことが感覚の混乱を招いた要因かと。
あまり誰かを否定することは書きたくないのですが、大隈重信さんのセンスのなさかな。。
まあ仕方なかったのだろうし、それ以上に功績もたくさんあるけれど。。
でも彼は明治神宮の森を作る時も「すべて針葉樹林にしろ」とか言ったんですよ、、
「それでは豊かな森にならない!」と科学的に論破した学者たちのおかげで、あの素晴らしい森があるのです。
すべてが闇に包まれた空に生まれたての太陽が昇ることが、本当の初日の出。
全然、意味合いが変わってきますよね。
桃の節句の雛祭りに桃の花が咲かないのも、
七草がゆの日に七草たちが生えていないのも、
旧暦での日付を、同じ数字の新暦に当てがったから起きた悲劇。
旧暦において、月の満ち欠け周期と太陽の運行(365日)の誤差を埋めるために作られたのが、季節を表す「二十四節気」。
さらに細分化した「七十二候」もあります。
実際、立春を過ぎると暖かい日が増えたり、冬至を過ぎると日が長くなったり、二十四節気って体感と合ってるんですよね。
体感と天体が一致しているから、昔の日本人は迷うことも少なかったのではないでしょうか。
今年の旧暦新年は、なんだか前日の太陽の方が新年を感じたのですが、そういう感覚を信頼してもいいゆとりが旧暦にはあったと思うのです。
「十五夜」など、月と連動していないとできない行事は旧暦と同じ扱いのまま残されているので風情を感じることはできますが、
体感を伴わないのにお正月を迎えなくてはいけない、
咲いていない花の節句をしなくてはいけない、
となると、自分の感じていることは完全に置き去りですよね。
感じていることを信頼しないと、直感はどんどん鈍くなります。
日本人がサイキックじゃなくなってしまったのは、そういう理由だったのではないかと思うのです。
ちなみに今は二十四節気でいうともうじき「雨水」
雪が雨に変わり、雪解けの時期を表しています。
七十二候では「魚上氷」
割れた氷から魚が飛び出してくる時期。
固まっていたものがふと ほどけたり、何かを思い出したり、過ぎ去った時間に思いを馳せる時かもしれません。
旧暦では、細い三日月を見た時に「昨日は新月だったのか」と理解することもあったそうです。
過ぎた時間を受け止めるやわらかさ。
今を見て、過去を知る時間の立体感。
月を読んで、太陽に学ぶ生き方。
それが本当の日本人。
今回の参考文献はさとうめぐみさんの「毎日が満たされる旧暦の魔法」。わかりやすくて好きです。
ご興味あればぜひ〜。