これは以前書いたことがあるエピソードですが、職場の人のお葬式に行った時に、故人ご本人が天井から手を振ってきたことがあります。
お年を召された方だったのですが、そのお姿はかなり若返っていて胸板も厚く、がっしりした体型になっていたのです。
お肌もツヤツヤで元気そうで、私に気づいて「おーい!来てくれたのかあ!」と笑顔で振る手の動かし方が、私が退職してからはしばらく見ていなかった、懐かしい独特な振り方でした。
なんだか悲しむこともなくお見送りしてきた思い出です。
先日、父の三回忌が無事に終わりました。
早いものですね。
お墓の前でお経を聴きながら父を感じようとすると、光を纏った父がいました。
その父は30代くらいの姿で、服装は見たことのない長袖のストライプのシャツ。
シャツの年代もなんだか30年くらい前のテイストなんですよね。
人は肉体から離れると好きな年齢になれると聞いたことがあります。
そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれません。
肉体を離れた魂はまず最初に「死んだら終わり」じゃないことを知るのでしょうか。
学びや修行はむしろ魂の世界のことで、肉体を持って生まれることは実践。
向こうで学んだことや決めてきたことを一度忘れ、かけらを拾い集めながら思い出していく旅。
また別の誰かが、向こうの世界では魂の状態や学びの深さに応じて姿が若返る、と言っていました。
そうなのかもしれないなあ、と思うのです。
葬儀の時に手を振ってくれた方はみんなから「じっちゃん」と慕われ、とてもチャーミングで優しい方でした。
地球の時間軸では誰もが年齢を重ねますが、心が年老いていくかどうかは、自分次第。
じっちゃんの魂の姿は若々しく、健康そのものでした。
そして父は向こうに行ってから色々なことを学んでいる様子だったので、今は30代くらいに若返っているのでしょう。
ここでひとつ、疑問が。
若返ってゆく姿は、一体どこまで若返るのだろう?
最終的には赤ちゃんになるのかな?
と思った時に、なぜ天使が赤ちゃんの姿で描かれるのかがわかったような気がしました。
デトックスや学び、気づきを繰り返しながら、磨かれていく魂。
深い心と智慧を備え、澱みのない美しい魂が人の形を纏うとしたら、赤ちゃんしかないかもしれません。
学びを深めて赤ちゃんの姿まで戻り、人のために身を捧げる天使となるのか
さらに原始に還り、光の粒となり神に使えるのか
それとも今度は別の肉体を纏って生まれ変わるのか
「また会えるかな?」
「会えるよ。またちょっとだけ、あとでね」